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松島 (防護巡洋艦) : ミニ英和和英辞書
松島 (防護巡洋艦)[まつしま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
防護 : [ぼうご]
  1. (n,vs) protection 
巡洋艦 : [じゅんようかん]
 (n) cruiser
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

松島 (防護巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
松島 (防護巡洋艦)[まつしま]

松島(まつしま)は日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍防護巡洋艦である。1892年4月5日、竣工し第一種に編入。1898年3月21日、二等巡洋艦に類別された。
国が保有していた戦艦鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島橋立
== 概要 ==
明治維新後の混乱の時期を過ぎると、世界的な帝国主義の波の中で、日本は国土防衛と海外進出のために朝鮮半島を生命線とする国家戦略を立てていた。これに対抗するのが、歴史的に朝鮮宗主国をもって任じていた清国であり、次第に日清両国の衝突は避けられないものと認識されるようになった。
明治18年(1885年)、日本海軍に衝撃を与えたのが、清国北洋艦隊に配備された戦艦鎮遠と定遠の2隻であった。両艦とも基準排水量が7,220t、主砲に30.5cm連装砲を2基4門備え、舷側装甲の最大厚は305mmで当時の列強海軍が極東に配置していた大型艦のどれよりも凌駕する巨艦であり、当時の日本海軍から見ると化け物のような巨大戦艦であった。
焦った日本海軍は、せめて主砲口径だけでも凌駕できる軍艦をつくり、鎮遠・定遠に対抗しようとした。この設計思想に基づき製造されたのが、松島型防護巡洋艦、いわゆる「三景艦」である。
その最大の特徴は、鎮遠・定遠の主砲口径を上回る32cm(38口径)単装砲(カネー砲)であり、松島には後部甲板、他2隻には前部甲板に据え付けられた。そのため、同型といえども松島の艦形は他2隻とだいぶ違って見える。
しかし、32cm砲という巨砲を積むプラットフォームとしての船体は当時の日本の整備ドックや港湾の施設からして4,000トン台が限界であり、そのため4,000t級の艦体に無理やり積み込む羽目となった。
設計技師士官エミール・ベルタンは当時のフランス海軍の防護巡洋艦と同じように船体の大きさに見合った中口径砲を多数積み、機関出力を増やした高速巡洋艦を提案したが、身近な脅威を感じる日本海軍は提案を拒否。かくして巡洋艦級の船体に戦艦級の巨砲を積むこととなった。さらに、巨砲を積む代償として機関と装甲は切り詰められた。
言ってみれば子供に大型拳銃を持たせ、撃たせるようなものであった。案の定、砲塔を首尾線方向から左右に旋回すれば砲身の重みで重心が狂って艦が傾斜し計算どおりの仰角が取れず、砲撃すれば反動で姿勢が変わって進路まで変わる始末で、おまけに肝心の砲そのものも日本海軍の士官・兵と共に技術未熟で満足な操作が出来ずに故障が頻発し、実戦化に時間が掛かってしまった。
実際、1894年9月17日の黄海海戦において清国北洋艦隊と対決した際、松島から発射した32cm砲弾はたった4発、他の三景艦も、厳島が5発、橋立が4発で、命中弾はなかったとする説もあるが、捕獲後の鎮遠の検分によれば32cm砲弾の直撃破孔が1つあったとされる。が、その記録の方を取るとしても、1発しか命中しなかったことになる。
宝の持ち腐れというよりも無用の長物であったといえば酷かもしれないが、全く役に立たなかったのは確かであった。むしろ、艦隊行動の高速機動性と12cm砲以下の速射砲による戦果が大きく、以後の日本海軍のみならず、世界各国の海軍に大きな教訓を与えた。
黄海海戦において、15時30分、松島の左舷4番12cm砲郭に鎮遠の30.5cm砲弾を受け、集積の装薬が誘爆、28名が戦死し、松島は大破した。
日露戦争では二線級として扱われたため、実戦への参加は少なく、もっぱら哨戒と掃海業務に従事した。
明治41年(1908年)、海軍兵学校を第35期で卒業した少尉候補生を乗せた遠洋航海の途中、寄港した台湾馬公で爆沈した。殉職者は乗組員370名中207名にのぼった。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。尚、僚艦橋立に乗組んでいた永野修身大尉(当時)が真っ先に短艇を指揮して救援に向かったという話がある。
なお、日清戦争直前の明治26年11月30日改正の「軍艦団隊定員表」によると、松島型の三景艦はいずれも、大佐艦長)1、少佐(副長)1、大尉7、少尉7、機関少監(機関長)1、大機関士3、少機関士1、大軍医2、少軍医1、大主計2、少主計1、上等兵曹3、機関師4、船匠師1、1等下士20、2等下士22、3等下士15、1等卒53、2等卒96、3等卒及び4等卒合せて114名とされた。
以上、士官は27名(内兵科16、機関科5、軍医科3、主計科3名。)、准士官は8名、下士は57名、は263名で、総計355名とされた。なお、当時は中佐及び中尉並びに同相当官は置かれていなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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